書評 Nicholas Mercuro and Steven G. Medema, Economics and tha Law:From Posner to Post Modernism(『學鐙』Vol.95 NO.7,1998/7)
「法と経済学」という分野は、アメリカでもイギリスでも既に数十年の歴史を持ち、単なる経済学と法学の境界領域としての性格を超えて、「今日アメリカの法学教育における最も強力な潮流であり、いくつかの(法学研究)分野では完全に支配的な方法」(アンソニー・クロンマン、1993年)となっている。しかしロー・アンド・エコノミックス(学生たちのいうローエコ)は比較的未成熟な分野であり、そこにはさまざまなアプローチや視点が混在している。
本書の最大の特徴は、それらを見事に整理し、広範な問題について、対立する視点をフェアな形で紹介し、法と経済学全体への誘いを果たしている点にある。
著者たちによれば、「われわれは特定の学派に賛成も反対も唱えない。」むしろ、それぞれの学派が伝えようとしているメッセージは何なのかを簡潔に要約し、最終的には、アイデアの市場において勝者が選ばれていくのを助けようとしているに過ぎない、という。
しかし、著者たちの立場は明確である。それは本書の題名が Economics and the Law とされていることに現れている。伝統的な教義解釈学的法研究によって固められた世界を定冠詞つきのザ・ローと呼び、その世界への経済学の挑戦を書名に掲げた本書は、法的課題の分析に経済学が有効であることを信じて疑わない。
本書のもう一つの特徴は、ローエコ分野のさまざまな学説が、思想史あるいは学説史的背景とともにサーベイされている点にある。例えば、ポスナーのローエコやコールマン=ランゲのローエコなど多くの書物は、財産権、不法行為と損害賠償、環境問題、公的規制などの課題を取り上げて、法と経済学の関わりを議論する。
しかし本書が取り上げるのは、フランク・ナイトからコース、ベッカー、ポスナーに至るシカゴ学派の法と経済学、ダウンズ、ブキャナン、タロックらの公共選択学派、コモンズやミッチェルの制度学派、アルチアン、デムセッツ、ウィリアムソン等の新制度学派、さらにマルクス主義的視点からの批判的法研究学派の考え方である。
ローエコを法を含む制度と経済活動に関する社会科学的洞察としてとらえるとき、本書が提供するサーベイは極めて有益である。著者らの要約によれば、シカゴ学派のローエコはつまるところ「法の経済分析」であり、実証的にも規範的にも、法制度の経済分析に新古典派の視点を導入しようとする。
この見方によれば、法制度の役割は、人々の行為に与える誘因を変化させることによって、合理的選択を行う経済主体の行動を誘導し、効率的な資源配分を実現することにある。他方公共選択学派も、同様な行動仮説を法の分析に取り入れようとするが、この学派の関心は立法過程あるいは政治的意思決定過程に向けられる。選挙、代議制、官僚行動などを分析対象として、制度の目的はやはり至富学ではなく交換学的結果にあるとする。
これらと異なる視点を導入するのが制度学派および新制度学派である。彼らが注目するのは、法体系を含む制度は経済システムのパフォーマンスに影響を与え、逆に経済システムのパフォーマンスは制度に影響するという連鎖的関係である。しかもこれを分析するに当たって制度学派は、人間行動の限定合理性を方法論的前提として置く。所有権の構造、契約のルール、取引費用等の問題が取り上げられ、制度の評価基準は資源配分の効率性に置かれる。
批判的法研究学派は、マルクス主義の伝統に沿って、法制度のもつ政治的意味を強調し、いかに生産手段の階級的所有構造が制度を規定し資源配分を決定づけるかを分析しようとする。
こうした学派の並立によって、ローエコの分野にはいまだ標準的教科書が成立していない。しかし本書を通読して明らかとなるように、ローエコの諸学派は、法制度の役割を分析するに当たって、人間を動かす誘因構造に注意を払い、評価基準を資源配分の効率性に置くことでは一致している。
日本の法学部でも、既に解釈学からリアリズム法学へというシフトは起こっているのだろうか。少なくとも評者の所属する大学院では、政策研究の必要に迫られて、ローエコがらみの科目を増やさざるを得ない状況にあるのだが。