恐慌から回復への政策

~エコノミスト(1998年6月)

1930年代の大恐慌からの脱出は、市場経済による価格的数量的調整と、市場の枠組みそのものに加えられた制度的変更、および第二次世界大戦によって可能となった。

アメリカの大不況では29年から32年にかけて名目GNPが44%縮小し、卸売物価は40%下落し、企業収益は50%低下し、失業率は全体で25%に達した。こうしたデフレ調整に加えて、20年代に2万5千行あった銀行が30年代の終わりには1万5千行にまでその数を減らすなど、徹底的に金融機関や企業の整理が行われた。

ルーズベルトのニューディール政策は、ケインズ的有効需要政策としてよりも、制度改革としての意義の方が大きかった。実際ルーズベルト自身はそれを国民生活を救い、守るための三つのR、すなわち、relief(救済)、recovery(復興)、reform(改革)を意図していると語った。
しかしルーズベルトの制度改革は緊急対応に追われ、首尾一貫性を欠き、思いつきに終始し、折衷的で哲学を欠いていた。

33年の百日議会では、民間国土保全部隊の創設、農業調整法、テネシー峡谷開発公社の創設、全国産業復興法、グラス・スティーガル法など、前代未聞の数の制度や法律が作られた。
そのうちニューディールの根幹をなしたのは、農業調整法と全国産業復興法だったが、これらの法律はいずれも35年、連邦最高裁判所によって違憲と断定された。
公正コードの作成を政府が指導することは、行政による立法権の侵害に当たると判断されたのである。
これを受けて第74議会は、社会保障法、ワーグナー法、持株会社を禁止した持株会社法、累進度を強化した税制改革、緊急救済支出法、第二次農業調整法などを生み出し、第二次ニューディールを演出した。

こうした政策により、アメリカには後世に残る美麗な公共建造物が作られ、地域開発が進み、青少年が自然に親しみ労働する機会が作られ、芸術家には仕事が与えられ、アメリカの資本主義には社会保障や軍人恩給などの安全ネットが取り付けられた。金融制度を含む経済システムは、その後50年間ニューディールの枠組みを受け継ぐことになる。

しかし、不況時に公共事業という図式は、ルーズベルトの意図の中には存在しなかった。
37年にニューディールの効果から繁栄が戻ったかに見えたとき、元来の均衡財政論者であるルーズベルトは、財政支出を大幅に削減した。
そのためアメリカ経済は38年再び厳しいリセッションに見舞われ、新聞はそれを「ルーズベルト不況」と名づけた。
実際、ニューディールの期間を通じて、連邦財政支出がGNPの10%を超えた年は2回しかなかったし、
連邦財政赤字がGNPの5%に達することはまれだった。
後にある経済学者は、ニューディール財政の小規模な赤字は、完全雇用時に均衡すべき予算の規模から見れば、財政余剰に相当するという論文を書いた。ニューディールの財政赤字は小さすぎて、まだ経済回復のブレーキだったというのである。

そして、41年の失業率9.1%が44年の1.2%へと下がっていったのは、アメリカが太平洋戦争に参戦し、43年連邦政府赤字がGNPの30%に達することになってからであった。
戦争はアメリカに究極のケインズ政策を発動させたのである。