NEC 『コンセンサス』 1999.4 特別号
2006年末をめどにデジタル放送が全国で開始されることとなり、21世紀を目前に放送を巡る状況は大きく変わりつつある。なかでも家庭での情報の窓口として最も身近な地上テレビ放送のデジタル化は、テレビのカラー化依頼の技術革新といわれ、テレビがいわばパソコン内蔵テレビに変身をとげ、家庭でのマルチメディアの本命となる時代の到来ということができる。テレビ放送のデジタル化は、高品質な映像や多チャンネル化とコンテンツの多様化をもた らすだけでなく、双方向サービスなど放送と情報通信のネットワークを活用した多彩なサービスを実現し、使い方次第でいろいろな可能性が引き出せる、まさに未来派テレビの誕生といえる。近い将来には、異業種から放送サービスへの新規参画も可能となり、従来の放送文化そのものも、大きく変革をせまられることが考えられる。このような放送を巡るデジタル化の未来像を探ってみた。
デジタル放送の本格化でテレビの未来が見えてきた
-地上でジタル放送が2000年から試験放送を開始-
大阪大学大学院国際公共政策研究科・林 敏彦教授に聞く
■すべての情報通信メディアがデジタル信号でやりとりできる時代に
--林先生は「地上デジタル放送懇談会」の委員として、また「事業化専門委員会」の主査として活躍してこられましたが、まずデジタル化の意義というところから、お話をお伺いしたいと思います。
林 もともとコンピュータが扱う信号はすべて0と1の組み合わせからなるデジタル信号です。コンピュータは文書も動画もすべてデジタル信号に還元して処理したり送ったりしているわけですね。爆発的な普及を見せているインターネットでやりとりされているのもデジタル信号です。最近はCD、DVD、DATなどのいわゆる蓄積メディアもデジタル信号を使っています。
放送とデジタル化の意義は、そのことによって、情報通信と放送のすべてのメディアがデジタル信号をやりとりすることができるようになるという点にあります。つまりデジタル技術はすべての情報通信メディアに共通のプラットフォームを提供することになります。
人によっては、それによって可能となる情報通信の変革を「デジタル革命」と呼ぶことがありますし、アメリカの商務省は、デジタル化によってもたらされる新しい経済社会のことを「デジタル経済」と呼んだりしています。
■美しい映像や双方向サービスなど多いデジタル化のメリット
--やはり、デジタル化への潮流は不可避といえるわけですね。それでは、放送のデジタル化によるメリットについて、お聞かせ下さい。
林 第一に、電波の反射によるゴーストの出現がなくなるなど、標準テレビでも今まで以上に鮮明な映像やクリアな音声を楽しむことができます。バスや電車のなかで受信するテレビ放送も映像が乱れたりすることがなくなります。携帯用のテレビやカーナビでも鮮明な映像を受信できます。
第二、デジタル放送では電波の圧縮技術を用いて周波数帯域を有効利用することができますので、放送局の側では、今までと同じ牛端数帯域を用いて、1チャンネルの高品位テレビ(ハイビジョン)番組を放送したり、3チャンネルの標準テレビ番組を放送したりできます。放送局によっては、普段は3チャンネルの番組を放送していて、ワールドカップなどではハイビジョン放送に切り替えるような編成をするところも出てくるでしょう。
第三に、双方向サービスが可能になるという利点があります。放送と通信回線とを併用すれば、番組で見たことについてインターネットで問い合わせたり、商品を注文したり、データを調べたりすることができるようになります。
■地上でジタル放送は2003年に東京、大阪で放送開始へ
--海外での取り組みは。
林 アメリカとイギリスでは昨年から地上でジタル放送が始まっています。
--わが国の現状はどのようになっていますか。
林 わが国では、CS衛星放送は既にデジタル方式になっていますし、BSの後継機もデジタル方式になることが決まっています。受信者数が圧倒的に多い地上放送については、デジタル放送懇談会が昨年(1998年)の10月に『新デジタル地上放送システムの形成』と題する報告を出したところです。それによると、地上でジタル放送は2003年に東京、大阪で本格的な放送が始まり、ほぼ10年かけて順次全国に普及していくというシナリオが示されています。
■テレビはコンピュータと変わらないデジタル受信端末に変身をとげる
--最も身近なメディアである地上放送がデジタル化されるわけですが、視聴者にもたらすメリットにはどのようなものがありますか。
林 先に説明したことに加えて、私個人としては、衛星放送、CATV、地上放送、ビデオやCDなどの蓄積メディア相互間の競争が厳しくなり、それによってテレビ番組の内容がより視聴者の希望に添うように向上することを最も望んでいます。
--これにより新しいサービスとしてどのようなものが考えられるでしょうか。
林 放送の枠内では有料放送なども出てくるでしょう。カーナビとテレビの一体化されたサービスも可能となります。大容量記憶装置を使って番組を一気に全部セーブしておき、好きなときに検索して見るといったオンデマンド型の使い方も面白いかも知れません。高齢者や障害を持つ人々へのバリアフリーなサービス、あるいは将来的には外国の番組の自動翻訳放送なども可能となるかも知れませんね。
--通信・コンピュータと連動した、とくにコンピュータとの高い親和性を生かした新しいマルチメディアサービスにはどのようなものが考えられますか。また、新しいマルチメディア端末の出現も考えられますか。
林 次世代のテレビはもはや単なる受像機ではなく、コンピュータとほとんど異ならないデジタル受信端末になるでしょう。その画面上には、放送番組もインターネットの画像もコンピュータで作った情報も区別なく表示されるでしょう。
また、大容量の記憶装置を内蔵したデジタル端末を使えば、たとえば災害時などに、小学校区単位、河川の流域、海岸線など特定の地域に限定した放送を行うこともできるようになるでしょう。
■異業種からの参画が放送らしくない放送サービスの実現を可能に
--異業種からの新しいサービスへの参入ということは考えられますか。
林 デジタル懇談会では、テレビ放送について既存のアナログ放送局のデジタル化を優先させることを推奨しています。私もそれはデジタル化を普及させる戦略論として、あるいは次善の策として正しいだろうと思います。
しかし、音声放送については新規参入は自由となっていますし、テレビについても一定の期間が経過した後には異業種からの新規参入を認めた方が良いと思います。そうした事業者が放送らしくない放送サービスを提供してくれれば楽しいことが起こりそうではありませんか。
■2つのグループに分かれる視聴者に重要度を増す放送局の番組編成方針
--いま、お話を伺ったような新しいサービスが家庭のマルチメディア化を推進することになると思いますが、このような時代に放送文化はどのような変革をとげることになりますか。
林 テレビ放送だけで何百ものチャンネルが放送されるようになります。そのとき視聴者が能動的に放送を「選ぶ」ことができるでしょうか。私は視聴者も2つのグループに分かれるような気がします。
1つは能動的にチャンネル・サーフィンを楽しんだり、自分の好みにあった番組を選んで視聴するようなグループ、もう1つはどこかの放送局の番組編成方針を気に入って、そこにチャンネルを固定するようなグループです。たとえ新聞記事をバラバラに選べるようになったとしても、能動的に記事を選んで自分の新聞を作るような人はむしろ少数で、大部分の人はどこかの新聞社の編集方針が気に入ったとしてその新聞を取るのではないでしょうか。
そう考えれば、放送局の番組編成方針が今まで以上に重要になってきます。視聴者は番組を選ぶのではなく、放送局を選ぶようになるでしょう。また、番組についても双方向サービスで時々刻々誰が番組にアクセスしているかを簡単に知ることができるようになるでしょうから、より直接的に視聴者の判断が番組制作の現場に伝えられるようになるでしょう。
--機器製造業界やコンテンツ業界にとっても、大きな新規市場が創出されると思いますが、このような面での波及効果についてどのように見ておられますか。
林 新たなデジタル端末の市場規模は40兆円と見る人もいます。著作権の問題、コンテンツ流通市場の商慣行の問題などが改善されれば、コンテンツ市場が近代化され、コンテンツの付加価値が高まり、それが新たなコンテンツの制作費に還元されてますます番組が面白くなっていく。そうなって欲しいものだと思います。
■「マルチメディア社会は人間の身体性を復活させる社会」
--放送のデジタル化が完了すると、トータルデジタルネットワークが完成することになるわけですけれども、21世紀のマルチメディア社会は、どのようなものになるでしょうか。
林 デジタル社会は、デジタル信号化できる情報が時間と場所を克服して行き交う社会です。それは人間が肉体を失うことによって入っていくことのできる極楽浄土の世界かも知れません。多くの人がそうした天上世界の楽しさを説きます。私もマルチメディア社会には夢を抱いています。けれども同時に、私は能率が悪くても不格好でも、土や水や大気に囲まれ、においや味やぬくもりを愛する肉体世界に愛着をもっています。逆説的ですが、マルチメディア社会は人間の身体性を復活させる社会になるような気がしてなりません。
--どうもありがとうございました。