読売新聞(1998.8.3)
参院選挙での自民党大敗は、戦後最大の不況に対する政府の対応の遅れと無策ぶりに都市居住者の怒りが爆発した結果だろう。最近のデフレ・スパイラル懸念に、国民の目から見れば、政府の対策は余りにも少なすぎ、遅すぎた。しかし、公定歩合を0.5%と市場最低水準に保ち、公共事業を中心に政府支出を何十兆円もつぎ込んでも回復しない不景気には、どう対処すればよいのだろう。
最近新しい考え方として、調整インフレも選択肢に入れるべきだとの意見が出てきた。震源地はどうやら、米マサチューセッツ工科大学の経済学者ポール・クルーグマン教授らしい。
クルーグマン教授によれば、日本経済は需要不足から経済学者ケインズの言った「流動性のわな」に陥っている。流動性のわなとは、金利がほぼゼロの水準に下がって、人々が利子のつく資産よりも現金を持ちたがるようになったため、これ以上金融をゆるめても、現金通貨が膨らむだけで設備投資には全く効果がないという状態のことである。
他方、日本経済の長期展望としては、人工の減少と高齢化が予想される中で、右肩下がりの経済にならざるをえない。右肩下がりの経済に必要なものは、マイナスの実質金利だ。それにより貯蓄が抑えられ、減るべき投資にちょうど見合うことになる。
ところが、金融市場の金利ゼロ以下には下がらない。従って、実質金利がマイナスとなるためには、インフレが必要だ。インフレでゼロ金利の金融資産が目減りすれば、マイナスの実質金利が実現する。インフレを起こすためには、日銀が一時的に通貨量を増やすだけでは不十分だ。今後15年間4%程度のインフレを目標にする、と日銀が宣言し、そのように行動しなければならない。日銀は真面目に通貨価値の安定を守るのではなく、”不真面目”にインフレを政策目標とすべきだ。
クルーグマン教授はそう言う。
大恐慌下のアメリカでもインフレ論議が盛んに行われた。当時は物価下落こそが不況の元凶とされた。ルーズベルト大統領は、復興金融公社を使って金を高く買い入れることで物価の上昇を図ろうとさえしたが、さすがにこれは失敗した。
実際、ニューディール政策の根幹をなした農業調整法も全国産業復興法も主眼は供給のコントロールを通じて農産物や工業製品の価格を引き上げることにあった。ドイツではヒトラー総統のナチ政権が、アウトバーンを整備したり結婚手当を支給して、近郊予算主義者のルーズベルト大統領よりはるかに大胆なケインズ政策をとったが、同時に賃金凍結令を出して賃金の下落をくい止めようとした。いま議論されているのは金融政策によるインフレ期待の実現である。クルーグマン教授は、経済学者がよく使うたとえに倣って、日銀が一万円札をヘリコプターでばらまけばよいと言う。
クルーグマン教授の長期見通しには異論があるが、私は財政法を見直し日銀が新発国債を買えるようにすることを提言したい。そうすればインフレ抑制の歯止めがはずれ、政府は日銀の借り入れで赤字予算を組める可能性を手に入れる。一気にインフレ期待が高まることになろう。あるいは長短金利を逆転させるツイスト(ねじれ)作戦をとってはどうだろう。
つまり、一方で日銀は金融機関の持つ国債等を大量に買うことによって市中に資金を供給(買いオペ)して貸し渋りを防止し、一般論とは逆に思えるかもしれないが、他方で公定歩合を1%程度引き上げる。そうすればいくら銀行の日銀貸し出し依存度が下がっているといっても、短期金利市場では金利が上昇し、預金金利も上昇するだろう。千二百兆円の家計金融資産の利回りが1%上昇すれば、年間十二兆円の減税と同じ効果がもたらされる。
国際的な短期資金の動きもこれで変化して、為替相場は円高に向かうだろう。利上げで再建途上の銀行に負担がかかるだろうか。貸出金利は当面上昇しないだろうから、利ざやは縮小するだろう。しかしそれで収益が悪化しても、円高で海外資産の評価が下がれば、8%の国際決済銀行(BIS)の自己資本規制はクリアしやすくなる。
こうした金融政策で物価と資産価格反転の期待を誘導しながら、財政政策は減税を中心に拡張的に運営する。有効需要不足と流動性のわなに陥った日本経済を救うためには、こうした”不真面目”なマクロ政策を真面目に断行するしかないだろう。