~エコノミスト(1998年6月)
歴史の後知恵をもって振り返れば、1930年代の世界大恐慌はいくつかの重要な政策ミスによってもたらされたと言ってよい。
第一に、20年代のアメリカは、無傷の戦勝国として軍事テクノロジーの民生転用、自動車、家電、流通革命等を背景に未曾有の好景気を経験したが、その果実を世界に再分配することを拒否した。
21年、24年とアメリカは移民を厳しく制限する移民割当法を制定したが、これにより国内では「赤ん坊」の不作に拍車がかかり消費不足がもたらされるとともに、アメリカの富の国際的分配が阻止されることとなった。
29年の移民割当法はアジアからの移民にとりわけ厳しく、割当人数をゼロとされた日本政府はこれに抗議し、それが後の真珠湾への伏線となっていった。
第二に、25年にイギリスが旧平価で金本位制に復帰したが、これは戦後の復興期に実力以上のポンド高を国威の高揚と誤認したチャーチルの誤りである。この誤りがイギリスからアメリカへの国際的な資金移動を引き起こし、それを阻止しようとした米連銀の金利引き下げを呼び、ウォール街のバブルへとつながっていった。株式市場バブルの中で復興にあえぐヨーロッパはさらに資金をアメリカに吸い上げられ、ヨーロッパに金融危機が醸成されていった。
移民を拒否され、資金を吸い上げられたヨーロッパに対して最後に加えられた打撃は、31年のスムート・ホーレー法、経済学者が歴史上最悪の立法と呼ぶ貿易制限法だった。
これによりアメリカへの輸入関税は平均50%引き上げられた。
アメリカ労働者の実質賃金を守るためという大義名分のもとに、全米の経済学者千人以上の反対署名を押し切ってフーバーが成立させたこの貿易法は、直ちにオランダ、ベルギー、フランス、スペイン、イギリス等の関税報復措置を招き、米欧貿易は急速に縮小し、一次産品・資源輸出国も甚大な被害をこうむった。これにより世界大恐慌はフルスケールで進行することとなった。
32年にはフーバーが大不況のどん底で均衡予算を成立させた。
不況救済事業は地方政府の役割であり、連邦政府は健全財政を維持することで経済の安定化を図るべきだとの考えからだった。現実にはフーバー財政は赤字を拡大していき、その後のニューディール時代よりも大きな財政赤字を背負うことになったが、少なくともフーバーには、ケインズ的有効需要政策の意図はもとより、国際社会の需要不足をアメリカ経済が補填すべきだという考えはみじんもみられなかった。同様に、大不況の中での金融政策の誤りはフリードマン等マネタリストが厳しく糾弾したところであるが、国際経済の舞台の上では、それはアメリカに集まる資金の不胎化政策を意味していた。
もしも、当時のアメリカが連邦レベルでニューディール以上に強力な積極財政を実行し、設立後15年の連銀が超歴史的視点に立って積極的な金融政策を展開していたならば、60年前の世界大恐慌は戦争によらずして解決されていたかもしれない。
歴史的制約、経済学の未成熟、政治的現実などによってであろう、歴史はそのように展開しなかった。
しかし、大恐慌から第二次世界大戦にかけて人類が支払った高価過ぎる代償からすれば、この歴史の「もしも」は今度こそ試されなければならないであろう。